ガイア儀をいだいて

 東の彼方が空白む。
 森から流れる涼しい風が金髪を揺らし、朝の匂いを運んでくる。もうしばらくすると空は青く透きとおり、空はほんの少し手が届きそうな場所に降りてくるだろう。
 ジタンは、この夜明けの入り口が好きだった。
 青い故郷の不確かな手がかりを得ては、期待に胸を膨らませていた幼い朝も。年上の仲間と飲み明かした、舞台の打ち上げの終わりに迎える眩しい朝も。――成り行きで始まったはずなのに、いつの間にか自分たちの運命に紐づいていた、真実への旅に繰り返される静かな朝も。
 
 見張り番として朝を迎える、彼にとっては心が透き通るひととき。背中には仲間たちが安心して休んでいるテントがある。夜からずっと絶やさないようにしていた焚火に木片をくべると、ジタンは羽織っていたブランケットを脱ぎ、荷物の上にかけて立ち上がった。そして思い切り伸びをする。凝り固まった背中を左右にストレッチして、爽やかな朝の空気を自分の中に満たしていく。
 そんなとき、ちょうど後ろから小さな物音がした。振り返ると、テントからぼんやりとした顔を覗かせる人影があった。
 
「ダガー? ……どうかしたのか?」

 まだ起きるには早い時間だ。ほほ笑んで尋ねると、彼女はテントから出て、先ほどのジタンのようにうんと背伸びをした。
 
「なんでもないの。目が覚めてしまっただけ」
「よく眠れないのか?」
「そんなことないわ、最近はぐっすりよ」
「そりゃよかった、またスリプル草をやらなきゃいけないかと思ったよ」
「もう」

 からかわれたダガーが肩をすくめて笑うと、ジタンも屈託のない笑顔になる。朝いちばんにふたりで会話ができたならば、彼にとって最高の一日になるのだった。まだ夜の余韻すら残るような清らかな夜明けに、満面の笑みを浮かべる彼。
 それを見て、ダガーはすぐに呆れ笑いからふと表情を変えた。
 
「……ありがとう」

 え? ジタンが目を見開く。
 ダガーも、ハッと口を押さえた。まるでこぼすようにくちびるから言葉が出てきてしまったのに、あとから気が付く。

「あ、いえ、その……」

 もごもごと口ごもりながら、頬は恥ずかしさに熱くなってきた。

「オレ、なんにもしてないけど」

 笑いながらジタンは、照れて頬に手をあてている彼女の可愛らしさに胸がうずいた。理由はどうであれ、彼女が素直に何かを伝えようとしたらしいことが、嬉しい。しかしあまりいじわるをするのもかわいそうなので、彼は先ほどまで羽織っていたブランケットを取って彼女に手渡した。
 
「じゃ、その『ありがとう』のために何か飲み物でも淹れるよ」

 少しそこに座ってと指をさし、荷物の中から野宿道具を探しはじめる。ダガーは彼の気遣いにホッと息をつき、背中からブランケットを羽織った。ジタンに言われた通り、やや座りやすそうな岩に腰かける。
 隣で湯を火にかけるジタンの金髪に、焚火の光が明るく毛先を流れる。火の中で木のはぜる音。シンと静かに息をする森の影。青い瞳の横顔。ダガーはひとつひとつ目で吸い込むように見つめた。
 
「なあダガー、最近寝る前に何を書いてるんだ?」

 ふいに青い瞳がこちらを見て、ちょうどよく視線が合う。
 
「ああ……日記を書いているの」
「日記? へえ、すごいな。毎日書いてるだろ」
「別にすごくなんてないわよ。その日にあったことや思ったことを、短く書いているだけ」

 ここ最近、宿に泊まっても野宿をしても彼女は必ず何かを書き留めていた。何か大事そうなペンと、薄い手帖と夜更けのランプ。見かけては見とれていたけれど、つい何を書いているのかを聞きそびれていた。とても真剣な顔で書いているのだ。

「……読みたいな」

 ジタンの瞳が細められて、少し面白そうにつぶやく。ダガーは少し困った顔をして首を振った。
 
「ダメよ。恥ずかしいもの」
「そっか……でもさ、オレだったら3日と続かないぜ」

 感心したように言う彼。道具袋から何か飲み物になるものを探す。こんな早朝だけどコーヒーしかないから、いいかな? と尋ねるのでダガーはうなずいた。彼のシッポがどこか楽しそうに揺れている。そんな彼を横目で見ていたらまたポツリと言葉が、出てきた。
 
「書き留めておかないと、もったいない気がするの」

 ジタンが見やると、ダガーは続けた。
 
「そのときに起こった小さなこと。感じたことや、自分の気持ちの変化とか……。せめて書き留めておかないと、些細なことからだんだん忘れていってしまいそうで。それがすごく寂しいの。どれも取りこぼしたくないのよ……。こんな風に感じたのは、生まれてはじめてなの」

 話し出すと止まらなかった。そう感じている自分自身が、ダガーには少し誇らしかった。
 いま目にしている清廉な朝の空気も、ブランケットが心まで温めてくれていることも、優しい彼とコーヒーの香りも、いつまでも形ある記憶に残しておきたい。
 大いなる運命に立ち向かって、大戦を迎えたら、何かの終わりがやってくる。この真実への旅は、はじまりと終わりの中に限られている。

 彼女がジタンを見上げた時に、すっかり短くなってしまった黒髪が凛と揺れる。彼女の華奢な体のすみからすみまで、そういう透明な美しい思いで満ちているのが、ジタンには眩しかった。
 美しい彼女に少しの間見とれていたことに気が付き、湯が煮立つ音で我に返る。
  
「それだけ、ダガーにとって“今”が大切なんだな」
「……ええ、尊いの」

 ダガーはゆっくりとうなずいた。
 守らなければならないアレクサンドリアの人たち。このガイアの青い温かさ。そのために傷ついては何かを得て、失って、痛みや宝物を共有している、大切な仲間がいるということ。
 それから、心から想ってくれている人の隣にいられる時間。そしてその人のことを見つめていられる、今という瞬間。まばゆい輝きを放つ心の宝物。
 砕いてあるコーヒーに湯を通しながら、ジタンは思いついたように言った。

「じゃあさ、いっそ、冒険譚にして後世に書き残してくれよ」
「ええっ? ……そこまで壮大なものにしようなんて思ってないわ」
「そうか? どうせならダガーの感じている尊い“今”を、未来に懐かしむことができたらいいじゃないか」
「あれを未来に読むのはわたしだけで十分よ」
「オレも読みたいなあ〜」
「ダメだったら」

 笑いながらコーヒーを受け取る。
 彼の口から出た『未来』という言葉を、自分も声に出してみると、ダガーにはまばゆく感じられた。約束された未来があるわけではない。来るべき戦いの先に生きていられるという確証はない。そういう“今”を生きているから、“今”も“未来”も――そうするとそれを生きる自分をつくってくれた“過去”にすら価値がある。
 先ほどまでは何の意味もなかったただの過去が、突然に価値あるものに変わる。今を大切に生きるということは、過去すらも変えることができるということだと、ダガーはこの旅を通して気付くことができたのだ。
 そう思ったこの瞬間すら、彼女には尊い。

「……さっそく日記に書かなくちゃ」
「うん?」
「今思ったことを」
「オレとのラブラブ・モーニングコーヒーのこと?」
「何言ってるのよ」

 そう言って呆れたように笑うダガーの生き生きとした表情に、ジタンははたと気が付いた。
 
「……そっか、そういうダガーだからさっき、『ありがとう』って言ってくれたんだな」

 ジタンがそんなことを言うので、ダガーはカップから顔を上げた。
 自分でも気付かず口からこぼれた言葉だったので、目から鱗が落ちる思いだった。言い当ててもらえたことが彼女には嬉しかった。

「そうか……、そうね」

 ダガーは大きくうなずいて、カップに揺らぐコーヒーを鏡に、嬉しそうな自分の影を見つめた。そして同時に胸にただよってくるのは、さみしさと切なさの香り。
 旅が終わればやがてやって来るのは平穏だろうか。その未来は愛しい日常であっても、きっと今のように、心がむきだしの感覚に揺られ動くような、激しく深い感動の連続はないかもしれない。心の奥深くの感覚で彼女はそう感じ取っていた。

「きっと未来には“有り難い”ことばかりなのよ、いまのわたしの身の回りで起こるものは」

 少しさみしさを込めて言うと、ジタンは面食らったような表情で瞬きをして、それから困ったようにふと笑った。

「そうかもしれないな……。でも、ダガー」
 
 え? 聞くと、ジタンはえらく真剣な顔をして、青が遠く光るような瞳を彼女に向けた。


「10年経っても、20年経っても、ダガーの生きる時間はきっとそういう輝きでいっぱいさ」


 そういう彼のまなざしの遥かなこと。
 未来に思いを馳せる。過去を見つめる。そして今をいだく。
 今は見つからないものを、見つけるために――ジタンのまなざしはそのためにあるのだろうと、ダガーは思った。
 
「ジタン……」

 呼ぶと彼は目を細めて微笑んだ。
 今過ぎ去った瞬間も、その目じりの優しさも、いつまでも忘れたくない。
 コーヒーのあたたかい苦さが喉から胸に広がる。尊いこの瞬間がしずくのように遥かな時の続きに波紋をたてて、未来の自分にどうかとどきますように。
 彼の言う20年後にも、その先の未来でも、この愛おしい気持ちに感謝ができますように。

 そして今この瞬間にも、ガイアに朝は訪れる。
 大事に抱いたガイア儀を、未来にうけわたしていく原点の朝が。

-THE END-

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2020.7.7 Mochi Yumebayashi / this story was gifted for